LOGIN怒りは消えていない。それでも、手を離す気にはならなかった。傷の上に置いた指の温度だけが、今は確かだった。 テーブルの端末が震えた。 青嶺療養院からの正式回答。面会拒否理由は、本人意思ではなく『家族側管理方針』。 白い画面を見た瞬間、手の温度が遠のきそうになる。私は反射的に律の指を少し強く握った。 律は画面を覗き込まず、私が読むのを待った。 家族側という文字は太く見えた。それでも、今度は一人で受け取ってはいなかった。 家族側管理方針。 画面に並んだその文字を、私はしばらく見ていた。 端末の画面だけが、テーブルの上で白く光っていた。 本人の意思ではない。画面には「家族側管理方針」とだけある。誰の名前もなかった。 律の手に触れていた指先から、少しずつ力が抜けていった。離そうとすると、今度は逆に、触れていたことの方が急に恥ずかしくなる。けれど、律は何も言わなかった。私の指が自然に離れるまで、ただ待っていた。「……行きます」 自分の声は、思ったより乾いていた。 高瀬さんからのメッセージには、青嶺療養院の正式回答が添付されている。面会不可。理由は、家族側管理方針により、外部者との接触制限を継続中。施設としては、管理者の指示に従う。 文面には、誰の名前もなかった。「今夜じゃありません」 律が言った。「今夜は動きません」「本当に?」 少しだけ責めるように聞こえた。私は顔を上げる。「侵入したりしません」 律の目が、揺れた。 たぶん、彼が言いたかったことを先に言ったからだ。「母かもしれない人を、最初に見る方法が、盗み見や押しかけになるのは嫌です」 口にしたあと、胸の内側が痛んだ。 母かもしれない人。 まだ、そうとしか呼べない。「でも、行きます。正式に」「明朝、高瀬に同行させます」「榊さんも?」「あなたが望むなら」 私は少し迷った。「……来てくださ
「……もっと早く、ここまで話すべきでした」 短い返事だった。あの時途中で終わった話が、ようやく繋がった。それでも、すぐに気持ちが追いつくわけではなかった。 私は湯呑みを持ち上げた。茶は苦く、冷えた磁器が掌へ張りつく。「怒られた方が楽ですか」 律は自分の右手を見た。署名をし、車輪を動かし、私へ触れる前にはいつも止まる手だった。「……少しは」 その短さが、かえって腹立たしかった。「ずるいですね」 律の指がわずかに曲がった。何か言いかける。「今、謝らないでください」 律は口を閉じた。 本当に黙るので、今度は少しだけ拍子抜けした。 私は笑えなかったが、呼吸は少し戻った。「事故のことを聞いたら、腹が立ってるのに、放っておけないって思ってしまって。……それが、また腹立つんです」 律の眉間に力が入る。哀れまれることへの拒絶が一瞬だけ出たが、彼は飲み込んだ。 律は何か言いかけ、湯呑みへ視線を落とした。「……嬉しいと思ってしまいました。あなたが、放っておけないと言ってくれて」 律は苦しそうに口元を歪めた。「でも、それに甘えて許されたことにはしたくありません」 言い切ったあと、律は湯呑みを少し遠ざけた。「まだ怒っています」「逃げません」 今度の返事には、反省の説明も将来の約束もつかなかった。 机の上に置かれた律の右手は、指を開いたままだった。差し出しているのではない。ただ、引っ込めずにそこにあった。 私はその手を見た。怒りが消えたわけではない。それでも、手を引っ込められる前に触れてみたいと思った自分を、今度は否定しなかった。「手を、見せてください」 律は一瞬だけまばたきをし、右手をテーブルの上へ出した。事故の時についた細い傷が、手の甲から親指の付け根へ薄く走っている。書類の上では知り得なかった凹凸だった。 私は触れる直前で指を止めた。律は促さず、掌を返
机に置かれた式典写真を、もう一度見た。仮面をつける前の律は、従兄たちの隣でカメラの外を見ていた。少し曲がったネクタイの結び目が、整った今の姿と妙に違って見えた。 律は写真を伏せず、指先だけを縁に残した。「榊家では、血筋より能力で当主を決めることになっています。表向きは」 実際には、候補の周りへ古い派閥が集まり、自分の席を残せる人間を当主にしようとした。律が正式な後継候補へ入れられたのは十八歳。その二年後、地方工場から戻る山道で、車のブレーキが効かなくなった。 説明する声は淡々としていたが、左手が肩の近くへ上がりかけ、途中で肘掛けへ戻った。 車は側壁へぶつかって横転した。運転手は律を庇って重傷を負い、意識が戻ったあとも、家族への報復を恐れてブレーキの異常を証言できなかったという。律は彼を榊の関係先から外し、遠い土地で暮らせるようにした。「守ったんですか」 私が尋ねると、律は窓へ視線を移した。「私が安心したかった。その方が近いです」 美談にしたくないのだろう。それは分かる。けれど、そう言われると今度は私が何か答えなければならない気がした。「そういう言い方、ずるいです。私が何か言わなきゃいけなくなる」 律は写真の端から手を離した。謝ろうとして、やめたように見えた。 事故で負ったものはある。長く動かなかった脚も、今も痛む肩も。けれど、世間が語った大火傷や、二度と立てない身体という話は事実ではなかった。周囲が勝手に怪物を作り、律は訂正しなかった。 噂で離れる者がいた。哀れみや好奇心を隠せず近づく者もいた。仮面と車椅子は、人を遠ざける壁であると同時に、近づく者の本心を映す窓になった。 私は窓の向こうの雲を見た。高層ビルのガラスに薄く映り、形を変えていく。「私のことも見ていたと、前に言いましたね」 律は頷いた。「はい。あの時、話さなかったことがまだありました」 初めて聞く話ではない。それでも、事故の細部を知った今は、彼が何を恐れ、私のどんな仕草を見ていたのかが、嫌なほど具体的に分かった。気遣いまで試されていたと思うと、胸の内側が縮んだ。「私は、本当
役員会のあと、律はすぐには書斎へ戻らなかった。 休憩室のテーブルには、手をつけられていない茶が二つ置かれていた。 本社ビルの上階には、役員専用の休憩室がある。窓が大きく、街の一部がひどく遠く見える部屋だった。ソファもテーブルも、よく整えられているのに、誰かが長く休むための場所には見えない。 相良さんと高瀬さんは、監査部との確認に回った。 部屋には、私と律だけが残った。 いつもなら、沈黙はそれほど重くない。 けれど今日は、園田常務の最後の言葉が、二人の間に重く残っていた。 事故の記録。 怪物になった夜。 律は窓の前で車椅子を止めたまま、外を見ていた。背中が、いつもより少し硬い。「話さなくてもいいです」 私は先に言った。 律の手が、肘掛けから少し離れた。「聞きたくないわけじゃありません。ただ、役員会で突きつけられたから今すぐ話す、という形にはしなくていいです」 聞きたい気持ちはある。けれど、園田常務の言葉に押される形で聞くのは嫌だった。「それでも、話します」 律はゆっくり振り返った。「あなたに聞かれる前に話す、と約束したことが、いくつも遅れています」「榊さんは、今の言い方なら私が怒りにくいと知っていますね」「怒ってください」 怒ってください、と正面から言われると、かえってどう返せばいいのか分からない。「簡単に言わないで」 思ったより、声が低くなった。 律は視線を落とした。「……軽く言いすぎました」 それ以上、律は足さなかった。 休憩室の壁には、古い榊グループの式典写真が飾られている。スーツ姿の男性たちの中に、若い律らしき人影があった。まだ仮面もなく、車椅子にも座っていない。背が高く、表情は今よりずっと鋭い。 隣には、年配の男性と、知らない若い男が二人写っている。 写真の端に写っていた若い男の顔を、私はもう一度見た。 写真の律は今より髪が短かった。隣の従兄はカメラへ笑っているのに、律だけは少し横
会議室が、音を失った。 私は、律を見た。 黒い仮面。車椅子。事故。 そこに誰が何を足し、何を信じ、律自身がどこまで否定しなかったのか。 私はまだ、その境目を知らない。 車輪が床を押す乾いた音が、会議室に短く響いた。 噂を利用してきた人なのだろう、とは思う。それでも、ここで武器として振り下ろされると、胸のあたりが別の形で痛んだ。「噂を利用して役員を試す当主が、他人の隠蔽を責めるのは、少し滑稽じゃありませんか」 園田常務の声には、勝ったと思った人間の湿り気があった。 私は口を開きかけた。 しかし、律が片手を上げ、私より先に口を開いた。「その件については、私から説明する」「説明で済めばよろしいですが」「だが、その前に」 律は相良さんへ視線を向けた。 相良さんが静かに一つの封筒をテーブルへ置く。「園田常務。あなたが過去二年間、KMS関連の外部コンサルタントから受け取った報酬について、監査部が確認してる」 園田常務の顔色が変わった。 一瞬だったが、はっきり分かった。「……何の話ですか」「今ここで断定はしない。でも、医療関連事業の取引継続を主張する立場として、利害関係の申告漏れがある可能性は高い」 律の声は荒くなかった。 だからこそ、逃げ場がなかった。「本日付で、園田常務には当該議題から外れていただく。監査結果が出るまで、KMS関連契約の承認権限も停止する」「榊さん、それは横暴です」「役員会の承認手続きに乗せる。異議は議事録に残してくれ」 園田常務の唇が、薄く震えた。 私は画面の端に映る自分の資料を見た。 園田常務は封筒を見たまま、しばらく瞬きをしなかった。「最後に、一つだけ」 私は声を出した。 全員の視線が、もう一度こちらへ向く。「私は榊家の婚約者として、この資料を出したわけじゃありません」 会議室の隅で、空調の音が低く唸った。「切られたら
「ここは、私の出生とは関係ありません」 私は画面の端を指した。「単に、内部統制上の穴です。誰が見ても、ここは説明が必要です」 役員の一人が、資料へ目を落とした。 投影画面の端で、カーソルが一度点滅した。 さっきまで私を見ていた目が、数字へ移る。 それだけで、少し呼吸が楽になった。 役員の目が私ではなく資料へ落ちたのを見て、私は次のページを出した。「見たい点は三つです。KMS関連取引が妙に集中していること。青嶺療養院の保守ログに残った、同時停止の不自然さ。それから……ここで調査を止めると、あとで榊側が隠したと見られるリスクです」「隠蔽とは大きく出ましたね」 別の役員が低く言った。 私はそちらを見た。「中止すること自体が隠蔽だと言ってるわけじゃありません。理由と手順を残さずに止めれば、そう見られる余地が生まれると言っています」「あなたの出生問題のために、会社を巻き込むなと言ってるんです」 園田常務の声が、少し硬くなった。「九条家と如月家の古い騒動でしょう。それを榊に持ち込まれては困る」 園田常務の言葉のあと、誰もすぐには動かなかった。 園田常務のペンは、資料ではなく私の方を向いたままだった。「私を切り離しても、ログは消えません」 私は画面へ視線を戻した。「青嶺療養院の障害情報、KMSとの取引履歴、承認者IDの不自然さ。それらは、私がここにいるかどうかとは別に存在します」「だから何だと」「私を退けることで問題が消えるように見せるのは、業務判断として危険です」 園田常務の頬が揺れた。「ずいぶん勉強されたようだ」「必要だったので」「誰の入れ知恵ですか。榊さんですか」 肘掛けに置かれた律の手が、わずかに強張った。 私は首を横に振った。「自分で読みました。分からないところは、高瀬さんに確認しました」「では、あなたは自分の個人的な事情のために、当社の法務部を使ったわけだ」 園田常務が
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「